旅レポート
| 2024-06-01

文覚と頼朝 歴史散歩視察ツアー 2024年5月31日開催

2024年5月31日、雨の中、文覚と頼朝をテーマにした歴史散歩の視察ツアーを行いました。

最初に訪問したのは逗子の岩殿寺。

坂東三十三ヶ所観音霊場の第二札所の岩殿観音。

渡辺浩済様に歓待して頂き、楽しいお話を伺うとともに、多くの貴重な資料を頂きました。

ー坂東三十三ヶ所観音霊場 チラシ

ー岩殿寺の伽藍・仏像・史跡 説明書(A4 1ページ)

ー岩殿寺の風水配置 理想的風水図と岩殿寺とその周辺の地形の比較(A4 1ページ)

ー岩殿寺から巡礼古道を通って、杉本寺へ行くハイキングコースの詳細 地図 各登り口の写真付き(A4 1ページ)

ー名越切通・まんだら堂回廊 歩き方と地図(A4 2ページ)

本日は雨で無理でしたが、昔の人々と同じ道を通って、岩殿寺から杉本観音へ行きたいという思いを新たにしました。

 

上記の写真は岩殿寺門扉に彫刻された頼朝の家紋、笹竜胆(ささりんどう)。

伊豆にいた頃から文覚が頼朝に、この岩殿観音を信仰するように進めたとのこと。

真鶴から船で敗走する際、無事に房総半島に辿りつけたのはこの観音のお陰と恩を感じて、

鎌倉で幕府を開いた後、頼朝は毎月参拝し、時には政子、大姫、実朝などの家族や、三浦義澄などの重要な家臣を伴っていたとのこと。

生きて生活していた人としての頼朝を感じることができました。

 

 

 

岩殿寺近くよりバスに乗車し、光明寺へ。

浄土宗大本山の立派な境内。

開山堂から、記主庭園を眺めて、休憩させて頂きました。

春は観桜会などもあり、3月末からゴールデンウィーク頃まで山門の内部も見学できるとのこと。

仏教講座や法話会のチラシも頂きました。

 

光明寺から、海辺へ出て、和賀江島跡を見学。

その後、補陀落寺へ。

補陀落寺は文覚を開山として頼朝が建てたお寺で、入り口の石碑に「頼朝公御祈願所」と書かれています。

 

補陀落寺では、本日まで見学が可能であった、平家の赤旗を見学しました。

壇ノ浦で平家が敗れた際、平家の赤旗が海面に浮かび、あたかも紅葉のようだったという

描写が平家物語にあります。

大将の平宗盛は捕えられ、義経によって、鎌倉へ連行され、頼朝と面会します。

その時まで宗盛が持っていた赤旗を頼朝がこのお寺に奉納したものとのことでした。

赤旗に書かれた文字は、平清盛のものであると伝えられているとのこと。

清盛の別の息子、維盛の遺児、六代の助命を文覚が頼朝に願い出て、文覚が六代を京都の神護寺に引き取った話にも

話題がのぼりました。

 

その後、材木座から大町へ北上して安養院へ。

坂東三十三ヶ所観音霊場の第三札所の田代観音のお寺でもあります。

お堂の扉が開いていて、手前に阿弥陀如来像があり、そのすぐ後ろに千手観音像を拝観することができました。

石橋山合戦を頼朝とともに戦い、その後の源平合戦でも活躍した頼朝の家臣、田代信綱が篤く信仰した観音像だそうです。

政子もこの観音を信仰し、この観音に祈ったお陰で、頼朝と結ばれ、頼朝が天下を取ることができたと考えていたそうです。

そのため、良縁観音とか、昇竜観音と呼ばれてきたとのことです。

江戸時代の絵図でも大きく記載されており、人々の関心の高さが推測できます。

最近の研究で、忍性に関するものではないかと言われているとても立派な宝篋印塔、また政子の墓である宝篋印塔も拝観することができました。

宝篋印塔はお墓としてお骨を納めているものなのか、それとも故人を記憶するためのモニュメントなのかというご質問が参加者の方からありました。

安養院の各所に、笹竜胆(ささりんどう)を見つけることができました。

 

比企ヶ谷の前を通り、琴引橋を渡り、小町大路を北上。

途中、ぼたもち寺の門扉にも笹竜胆を発見。

 

千葉氏邸跡と言われる妙長寺、義経を暗殺するために頼朝に京都へ派遣されるも捕えられて処刑されてしまった土佐坊昌俊屋敷跡の前を通り、北条9代の得宗家の屋敷跡である宝戒寺へゆきました。

 

その後、筋替橋の前を通り、三浦義村、泰村邸跡と西御門の位置を確認。

後白河法皇の院御所と頼朝の将軍御所の建物や池の配置図を手に、御所の跡地を歩き、広さを確認しました。

前述の宗盛は連行されてきた際、頼朝は庭を隔てて、御簾の中から宗盛と面談したとのこと。

情景を想像する手がかりとしました。

 

さらに、文覚上人邸後へ。御所のすぐ南の滑川(なめりがわ)沿いにありました。

三浦氏、北条氏など重要な家臣の邸が御所に近接しており、また文覚の家もすぐ近くで、信頼のおける人々に

守られていた頼朝の想像することができました。

 

バスで鎌倉駅へ戻り、江ノ電に乗車。

腰越の満福寺へゆきました。

 

宗盛を捕らえて鎌倉へ凱旋しようとした義経を鎌倉へも入れず、会おうともしなかった頼朝。

平家物語には、梶原景時が頼朝に義経のことを悪く告げ口したためとか、義経が清盛の妻の兄弟の時忠の娘を妻に迎え、時忠が所有していた重要な文書を頼朝に渡さず、故意に消失させたためなどと書かれています。

平家滅亡に功績のあった義経を認めようとしない頼朝に、義経は悲しみ、また憤慨して手紙を書きます。その手紙が腰越状で、義経の家来の弁慶が書いた腰越状の下書きと言われるものを見学することができます。

 

お堂の襖には巨大な絵巻物風に、義経も物語が描かれています。

天井にはやはり笹竜胆が。

 

文覚、頼朝、平宗盛、政子、義経などを実際に生きていた人々として感じる旅を無事に終えることができました。

 

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